腕ひしぎに関する考え

 矢野龍王の『極限推理コロシアム』を読んだ。カフカ的な不条理な設定を彷彿とさせミステリの中で似たような破天荒な設定を思い出したら清涼院流水という名にたどり着いたが、『コズミック』を面白く読めた私としてはあり。ミステリ的な謎ときよりかは囚人のディレンマをモチーフにした冬の館の人たちとの駆け引きや、監禁され次々と殺され事による疑心暗鬼になっていくかくかくのプレイヤたちの心理的葛藤に焦点が注がれた作品であったように思える。ただ一つ残念なのはおそらく限界を感じて設定されたであろう通信時における”裏技”だろう。あれがなく純粋に会話だけで推理できたら凄い作品だったと思えるのだが・・・。


 前回の続きみたいな話になるのだが、中邑真輔の腕ひしぎ(別に中邑のだけという限定的な意味ではなく、すべてのプロレスの試合に出される腕ひしぎについて話している)を見ていたらなぜだが藤田和之がやっていた”マット膝”を思い出した。マット膝・・・思い出してもこっけいであり笑わせてくれる。格闘技の迫力やプロレスが失ってしまったリアリティーを取り戻す為に輸入されたのだろうが、逆説的にもプロレスと格闘技の埋まらない、埋めようのない溝を露呈させるだけだったといえよう。ここで取り上げる腕ひしぎもプロレスで使われると急に魅力が半減され、非常に退屈な技へとたいらくしてしまう技である事を発見してしまったのだ。

 なぜつまらないのかと考えるに二段階の”耐え”があるからだと思う。耐えというのはプロレスのグラウンド技には必要不可欠であり、それを否定するつもりは毛頭ない。しかし腕ひしぎに関しては無用な耐えの動きが存在する。それが極められそうなるのを必死に両手を確りとグリップして極められないようにするシーンだ。これはプロレス的には全くの不要な部分である。なぜならばグリップをはずされ決められても、極まらないからだ。格闘技においてグリップをはずすからはずされないというシーンが緊張感があるのは、はずされたら間違いなく終わるからである(安生洋二VSハイアン・グレイシーを思い出してみよう)。それにくらべたら、プロレス版はグリップをはずされてもまだ続きがある。これは非常に間延びを引き起こして非常につまらないものへとすると同時に、自ら虚構である事をマニフェストする事にもつながる。

 そして耐える姿にしても見栄えが悪い。たとえばサソリ固めならば耐える方がいかに耐えていて逃げようとしているかが確りとわかりやすく演出できるようになっている。またはロードウォーリアーズのようにプッシュアップで余裕さを見せる事も可能だ。それにくらべ腕ひしぎはやられているほうがぜんぜん輝きようがない技である。もともと格闘技の技なのだから仕方ないのだが、こうやって格闘技とプロレスが截然と分けられた時代だからこそ、格闘技で使われている技を使うには元ネタのジャンルではどういう使われ方をしているかは確りと把握して使わなければならないだろう。単に格闘技で使われているから・・・たんに格闘系のギミックだからという安直な理由で使っていると技自体のたいらくを引き起こすことになるだろう。

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